尾鈴連山と日向灘が出会う地、都農。
この土地が秘める「未知の力」を信じたひとりの若者によって、
尾鈴ぶどうの物語りは始まる。その人の名は「永友百二」。
師範学校に進むより、
農民として生きることに夢を託した「信念の人」だった。
稲作に頼らない豊かな農業経営を理想とした「百二」は、
19歳で梨園を開園する。
雨の多い都農で果樹栽培は不可能……誰もがそう思い込んでいた。
だが彼は農業試験場や果樹園芸専門誌の指導を受け、
栽培技術を身につけていく。
雑木林を開墾し、苗を育て、ついには屋敷田にも梨を植栽。
「田んぼに木を植えるなんて」と周囲は非難したが、
研鑚に研鑚を重ね、
やがて東京農大主催の全国梨品評会で入賞。
二度にわたって一等を獲得している。
こうして梨栽培を軌道に乗せると、新たな試みに挑戦。
終戦直後からぶどう栽培に着手した。
昭和28年には県内で初めて巨峰を植付。
この年、「カトーバ、キャンベルぶどう酒仕込み。
マスカットベリーA 2貫収穫」の記録が残されている。
それから5年、巨峰は高値を呼び、注文殺到。
視察者が相次ぎ、
ぶどう農家も増えていった。
かくして、ひとりの夢がみんなの夢にとつながっていく。
雨、蔓割病、台風、塩害と戦いながらも生産量をのばし、
昭和43年には都農町ぶどう協議会が発足。
その後も彼は接木・挿木に技量を発揮し、
新品種開拓に情熱を傾けた。
巨峰にスーパーハンブルグを交配した「尾鈴」、
同じく巨峰に間瀬8号をかけ合わせた
「日向」は、昭和55年、農水省に品種登録されている。
1本の苗と1本の台木から巨峰を増やし、
尾鈴ぶどうを誕生させた伝説の人。
その志を継いで、都農は新たな夢を紡ぎ続けてきた。
県下有数のぶどうの里から、ワインの里へ。
そして固有のカルチャーを発信する町へ。
みんなの夢がいま、ハーモニーを奏で始める。
都農の旧家・赤木邸の庭先には、
50年前に植えられた
ぶどうの樹がある。
まるで盆栽のようなその古木は、
いまもしっかりとした実をつける。
ぶどう栽培の草創期、
先達たちが試行錯誤を
繰り返したころの、
野性味に富んだ
なつかしい味のぶどうである。